矢太樓の歴史

すべてはここからはじまった。~矢太樓物語

初代社長村木覚一のアイデア

戦争時は山の上から造船所を全望出来た為、戦争時には山の上に建物を建てられませんでした。 戦後、先代社長村木覚一が終戦後初の選挙で市会議員となった際に、その時の市長の諸政演説の中で「戦争に負けた長崎は水産も三菱造船もなくなるので長崎は観光都市以外には栄える術はない」 と言う話を聞いた村木覚一は直ちに議員を辞めたのちに、長崎の観光はどうすべきかと考えました。 その時目に入ってきたのが、当時ハタ挙げの名所としか知られていなかった風頭山。

風頭山を観光名所に・・・そして矢太樓へ

昔、ヨマ(ひもの事)にビードロを付けたハタ同士を戦うせる「ケンカ凧」という遊びがありました。 その落下してきたハタを回収した場所が風頭山だったです。 眼下に望む長崎の街を見て楽しむ事に気がついた村木覚一は、風頭が観光の名所になると着目し 市会議員を辞めたのちに、昭和26年風頭山中の八太郎岳に旅館を築く為に 自分たちで山を切り開く工事に着手しました。 その後バス(木炭車バス)が通る道をつくり水道を引き、昭和29年9月28日木造の3階建て客室7室、 広間1室の旅館矢太樓が完成したのです。

矢太樓の由来

名前の由来は県下に広く公募し、島原の方より地名(八太郎岳)を取って付けて下さった。 戦後の日本で山の上から景色を見下ろす旅館は類が無かったので 日本国中からお客様がお越し下さいました。

マッカーサーjr夫妻と船会社チェス社長夫妻

●マッカーサーjr夫妻と船会社チェス社長夫妻

手前が王監督と後ろが長嶋さん

●手前が王元監督と後ろが長嶋元監督

藤原洸様と現女将

●藤原洸様

ランダ国王女ベアトリックス内親王殿下

●オランダ国王女ベアトリックス内親王殿下

昭和41年6月

●昭和41年6月

矢太樓から見た昭和40年代の長崎市内

●矢太樓から見た昭和40年代の長崎市内

昭和44年 昭和天皇皇后陛下がお泊りに

●昭和44年 今上陛下がお泊りに

昭和天皇 皇后陛下がお泊りになられた際、矢太樓の前でじゃ踊りを披露しました。

●昭和天皇 皇后陛下がお泊りになられた際、矢太樓の前でじゃ踊りを披露しました。

矢太樓の歴史

昭和21年 長崎市小島町において菓子製造業同和甘味(株)創設。
昭和26年10月 ㈱橘屋と社名変更しました。
昭和29年9月28日 旅館“矢太樓”長崎市伊良林町2番1号において建設。木造家屋で営業開始。
客室数7室、居間1室、木造3階建
昭和32年9月25日 船会社の社長チェスさんがマッカッサーJrをご招待し矢太樓にご来館いただきました。
昭和34年4月 鉄筋コンクリートに増設6階建て、客室15室を増設。昭和35年10月に株式会社矢太樓に社名変更。
昭和36年4月 昭和天皇・皇后両陛下西九州ご行幸の折ご宿泊
昭和37年9月29日 国際観光旅館連盟に加入。
昭和38年4月8日 オランダ国賓オランダ国王女ベアトリックス内親王殿下がご宿泊されました。
(本館507号)
昭和38年 トンガ国の国王がご宿泊されました(本館507号)
昭和44年9月8日 皇太子殿下(今上陛下)同妃殿下、長崎夏季国体御臨席のご宿泊
昭和44年10月24日 昭和天皇、皇后両陛下、長崎国体御臨席のご宿泊当日、明清楽の御前演奏。
昭和46年9月30日 増築鉄筋コンクリート造陸屋根7階建て、民営国民宿舎「太郎の家」増設。客室31室
昭和47年2月 木造旧館を解体し鉄筋コンクリート2階建て(矢太樓)洋室を増設。客室洋室18室
昭和57年7月23日 長崎大水害発生。バケツをひっくりがえした様な雨が一気に降り長崎の街はほとんどが床上浸水となるました。 今でも浜の町には大水害の水位跡が示してあります。この後3年間長崎の観光は激減しました。
昭和61年 露天風呂「桃源境」を代表取締役村木營介、自らユンボを借り設計無しにとりあえず掘ってそれから設計し、長崎市内で最初の露天風呂を造りました。
平成4年 ヤタロウイン1号館を改装して矢太樓南館に屋号変更。